偏差値の呪縛

平均点の意味

 以前、子どもが学校の定期テストの前の1週間くらいから毎晩遅くまで勉強していたのを見て、質問したことがありました。
  「なんでもっと早く勉強しとかんかった?」
  「なんかやる気が出なくて、直前まで放ってた・・・。 で、テスト中にもっと勉強しとけばよかったって思うんだよね」
  「いい点とりたいんや? なんで?」
  「平均点くらいはとらないとカッコ悪いやん」
  「じゃあ、平均点目指して勉強してるってこと?」
  「まあね」
  「そこそこやって、平均点をとることが勉強の目標?」
  「・・・・」
 これでは勉強の目標がはっきりしていません。数十人のクラスメイトの中の位置で自分の勉強の出来不出来を判断していることになってしまっているのです。
 この思考では、平均点、あるいはそれよりちょっと上くらいの点数を取るのがせいぜいでしょう。
 そして、そのために必要な勉強量は、「まわりと同じくらいやればいいんだ」ということになってしまいます。

偏差値の意味

 ”偏差値”というのは、学力の指標としては最もメジャーなものとして利用されています。
詳しい説明は省きますが、先ほどの”平均点を目指す”という考え方は、”偏差値50を目指す”という考え方になります。

 図のとおり、得点の分布がきれいな釣り鐘のような形をしている場合には、100人いて2位以内に入れば、偏差値70、16番までなら偏差値60ということになります。
 つまり、偏差値は、”テストを受けた集団のなかの相対的な順位を示しているに過ぎない”のです。
 ここを理解すると、同じ偏差値50=平均点 をどの集団の中で目指しているかが重要ということになります。

偏差値の呪縛

 ”偏差値教育”という言葉があり、競争をあおるものとして批判的に使われるようですが、偏差値は学習の達成度とは基本的に関係ありません。自分の点数が低くても、周りの人が下がってくれれば偏差値は上がります。
 また、模擬試験などは、上の図のような得点分布になるように問題の難易度を設定して作成されています。その結果で、順位づけ(受験生全体の序列)と、学校の序列とをランキングしたものを見比べて志望校などを判断して、子どもが頑張っているのが日本の受験教育の姿なのです。
 理想的には、子どもたち全員が学力UPする(得点の山全体が右へシフトする)ことが、最も望ましいことであることは間違いありません。
 そして、ある一時期の、ある集団の中の順位で進路を決めるのもヘンな話ですし、偏差値は決して目標と呼べるものではありません。
ましてや、その順位によって、「自分はダメだ」というような思考に陥るのはもっとヘンな話です。
 自分がどうなりたいか?自分がどうありたいのか?
 子どもたちが自分で考えられるような世の中でなければなりません。
 無限の選択肢がある子どもたちの能力を計る物差しが、”偏差値”という単なる統計上の値なのは、あまりにも安直というか、さみしい気がしてなりません。




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